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神様を明確に信じるようになったきっかけ

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今日は、私が神様を信じるようになったきっかけについて話そうと思います。

神を信じていなかった、理性的な判断で理解しようとしていた時代

私は、特に高校生の時に「神はいるのだろうか」や「なぜ神を信じられる人がいるのだろう」などなど、ざっくりいうと神と信仰などについて疑問を抱き始めていました。

というのも、その当時仲良くしていた友人がビジュアル系/V系バンドが好きだったこともあり、私もハマっていました。

V系バンドではよくモチーフとして「神」とか「天使」「悪魔」などが使われることがあり、歌詞の中で「神を信じつつも神を信じていない」あるいは「神を信じていないと言いながら神を信じている」そのような矛盾に満ちた思想が表現されています。

そのような歌詞を聞いて、私は自分自身はどう思っているんだろうか、その判断が正しいのだろうか、と思い悩むようなっていました。

初めの頃私は神を全く信じていなかったです。人の心のよりどころとなる物=神という風に理解をしていました。

しかし、そのような結論では、「何で世界でこんなに大勢の人が信仰を守って生きているんだろう」と言う疑問に答えるには、到底理解し得ないとも思っていました。

そんなこんなで、世界史好きだった私は社会科の先生を目指していたこともあって、人の思想と言う観点から歴史を学んでみる、ひいては、大学では宗教学を専攻することにしました。

出会いは突然に

宗教学を勉強していたある日、世界の人々の様々な思想・信仰・哲学などを学ぶのが本当に楽しくて、少しでも気になった人物や思想があれば、それについて書かれた書籍を読むことにハマっていました。

大学3年生か4年生に、キリスト教系の宗教学の授業で「マイスター・エックハルト」と言う人物を知ります。

その授業は確か宗教改革ことについての内容だったので、その文脈のなかでチラッと出てきたのがマイスター・エックハルトでした。

確か、ドイツの神学者でしたが、解釈に誤りがあると言うことで異端扱いされてしまった方です。異端扱いされたので、彼の文献は焼かれておりほぼ残っていないです。

書物が残っていないと研究の対象にならないのが学問ですので、マイスター・エックハルトはかなりマイナーな部類の神学者なのではないかと思います。

で、そんなマイナーな神学者のマイスター・エックハルトのことが何だかすごく気になって、日本語で読める文献を探したところ、2冊の本があることがわかりまして、当時の好奇心旺盛な私はすぐさま読んでみることにしました。

何でかわからないけどすごく共感した

マイスター・エックハルトの言葉は私にとってかなりしっくりくる物でした。

それまで私が神に対して思うことを、彼が言葉にしてくれているような、そんな気がしました。

当時私はオットーの「聖なるもの」と言う、宗教学の入門書のような本を読んで頭を悩ませていました。

オットー曰く、神自体は聖なるものである。聖なる物とはヌミノーゼ体験を呼び起こす物であると言います。ヌミノーゼとは、「畏敬の念」「畏怖の念」ゾッとするような、言葉では言い表すことが到底不可能な感覚そのものであり、経験であり、それ自体である。と言うような説明がされていました。

神様がそんなにもゾッとするようなものだとは思えなかった私は、オットーの言うことに納得できていませんでした。あるいはオットーの説明を一般的な「キリスト教的」つまりは大いなる力に畏敬する宗教の系譜によるものだと言う言い方にも気に食わない気がしてなりませんでした。

(つまり、キリスト教は確かに教会組織と言う仕組みの中で、「権威」に基づき信仰を集めていたかもしれないが、それがキリスト教の本質だとは思っていなかったので、「キリスト教的」と言う言葉で片付けられるのにも変だな!と思っていたんです。)

(オットーがそんなこと言っていないよ!とツッコミあるかもしれませんが、私の勉強不足だったら誠に申し訳ないです。真相は自分で本読んでください。あくまで、私はオットーについて上述の通りに理解していて、何だか納得できてなかったと言うことが言いたいです。)

話がすごく長くなってしまい申し訳ないのですが、とにかく当日の状況としては、「神とは」の説明についても教わった内容では全然納得できていなかったんです。

それなのに、なぜかマイスター・エックハルトの言うことはしっくりきたので、自分の中で一歩前進したように思えた瞬間だったので驚きでした。

「そうか、これが神と生きる・神を感じる」そう言うことか!とわかった気がしたんです。

そのように共感すると同時に、胸にある感覚を感じました。

それは、とてもあたたかくてじんわりと広がるような気持ちのいい感覚でした。

人に心から感謝する時の感動で心が震えて喜ぶような感覚でした。

その感覚をマイスター・エックハルトが残した文章を読んでいるときによく感じることができたので、何だか面白いな、と思っていました。

自分の神の感じ方なのかも?

もしかしたら、この暖かい感じが、神を感じている証拠になるのではないか?

と、当時の私は思っていて、いろんな場面でそれを感じるかどうかを試すことにハマりはじめました。

その感覚の発動条件は

・神的な何か善いものを感じているときには、あたたかい感覚を感じることができると言うこと

・何かの本質に触れたときにしっくりくるとき

そのような時にいつも必ずあたたかくなりました。

そして、自分の中での一つの答えにたどり着きます。

「このあたたかさが私にとって『神様がいる』と言う何よりの証拠なのではないか」

そう思えたとき、それまで「神は存在自体はしない、ただただ人の心の拠り所なのだ」と言う考えを完全に否定することになりました。

「神様はいる。神様いつも見守ってくれていたんだね。」と心の中で語りかけると、やっぱりどうしてもあたたかい感覚を胸に感じます。

それが私が神を信じ、信仰するようになったきっかけでした。

今でも同じように

そのきっかけから早5年ほど経ちましたかね。

ある意味、神は私にとっての「心のより所」ではあるのですが、その表現では全然足りなかったです。

あたたかくなる感覚を教えてくれたマイスター・エックハルトにも感謝したいです。